寶鏡三昧

見えるがままだ。
真実はありのまま、何一つ隠すことなく堂々と目の前にあらわれているではないか。

そのような言葉で、ときに論理を超越して弟子たちに真理を説いてきたブッダの教えは、弟子から弟子へ、綿々と受け継がれてきた。
今、この書物を読む者は、そうしたブッダの教え聞く者の1人である。
ブッダが説いた真理をよくよく学んで、後世にも大切に伝えていってほしい。

さて、私たちが受け継いだブッダの教えとは、一体何なのだろうか。
たとえばここに銀の椀があるとしよう。
そこに真っ白な雪を盛り付けたらどうなると思うだろうか。
おそらく両者は見分けがつきにくくなることだろう。
同様に、明るい月が白々とした光を照らす下では、白鷺が佇んでいたとしても光に溶け込んで見つけられないかもしれない。

しかし、どれだけ似通って同じように見えるものであったとしても、当然のことながらそれらは同じものではない。
銀は雪ではなく、雪は銀でない。
両者は別物であるわけだが、混じり合っていれば、あきらかに別物と認識することもできない。
同じなのか、別なのか。別ではないが、異なるのでもない。
存在とは不思議なものだ。

存在の在り方というのは、このように至極微妙な位置に存在している。
同じようでも別なようでもあり、有るようで無いようなもの。
その不思議さを、存在の不思議として受け入れることを、教えの第一歩目としよう。

この不思議を言葉で説明するのはとても難しい。
古来、多くの人々が様々な言葉でこれを表現してきたが、はたして言い当てることができた者がいただろうか。
「如是」と一言で指し示し、余計な説明を加えなかったブッダの教えの手法は、なるほど素晴らしい機知であった。

この不思議を人々は真理と呼び、皆これを求めた。
しかし真理という言葉の意味にとらわれれば、言葉の穴に落ちていくようなもので、到底真理そのものを手に摑むことはできない。
逆に言葉を無視したとしても、それは真理から目をそむけただけで、結局は真理の道を歩いてはいない。
近づくのも遠ざかるのも、どちらも真理には程遠い。

たとえば、寒い日に当たる火は温かいだろう。
けれども火はそもそも温かいものではない。
近づいて触れれば火傷をする熱いものであり、離れすぎれば身体にまで熱が届かず冷たいものだ。

では本来の火とはどのようなものなのか。
あるいは火の温かさとは何によって決まっているのか。
これが、わかるだろうか。

このことを説くために、祖師方はいろいろな言葉を用いてきた。
私(洞山)は石頭禅師の孫弟子になるが、たとえば石頭禅師は『参同契』のなかでこう表現している。
「明中に当たって暗あり、暗相をもって遇うことなかれ。暗中に当たって明あり、明相をもって見ることなかれ」

これを火で考えてみれば、「火に近づけば熱いが、火を熱いものだと思ってはいけない。火から遠ざかれば寒いが、火を冷たいものだと思ってはいけない」となるのではないだろうか。
この意味がわかるか。

闇夜のなかでも月の光が届けばそれなりに明るい。
夜明けであっても太陽が姿をあらわすまではまだ薄暗い。

では、夜は暗いものだというのは、はたして真実だろうか。
夜明けは明るいというのは、はたして真実だろうか。
暗い、明るいとは、一体何によって決まっているのだろうか。

闇夜にも夜明けにも、暗い明るいにも真理はある。
法則と言い換えてもいい。
苦しみにも真理があるから、苦を真理で取り除くことだってできるだろう。
けれども人はその真理というものを、先ほどの火の話のように、熱いか冷たいかの二極で捉えようとする。

しかし、物事は本当に表と裏の二面しかないのだろうか。
あるいは二面で考えてよいものなのだろうか。

鏡に映る自分の姿を想像してみてほしい。
鏡の前に立つ自分と、鏡の中に映る自分。
そのどちらが本物の自分だと思うか。

無論、鏡の前に立つ自分だと思うことだろう。
しかし、たとえばその自分が血を流せば、鏡の中の自分も血を流す。
したがって両者はまったくの別人であるとも言い難い。

自分と自分が向かい合い、互いを見つめ合う。
両者はまったく同じ動きをするが、それでもやはり同じではない。
真に形があるのは鏡の前の自分で、鏡の中の自分は、あくまでも自分の影だ。

鏡でなくても、人は自分というものを外に見出そうとする生き物である。
しかし自分を探そうとしても、どこにも自分などいない。
自分を探そうとしているこの自分、それこそ正真正銘の自分でなくて何なのか。
最初からはっきりと存在している自分自身に目を向けず、外に自分を探し求める姿は虚しさの極みだ。

自分を探し右往左往する様は赤ん坊のようでもある。
どこに向かうでもなくウロウロし、起き上がったり寝転んだり、時々「バーバー」「ワーワー」と声を出してはみても、意味のある言葉にはならない。
言葉を得ていない赤ん坊のように、一番近くにいる自分を観ていないのである。

中国の占いの一種に、易(えき)がある。
この易で使用する6本の算木は、方式にしたがって並べ重ねていくとやがて元の形にもどるようになっている。
どれだけ変化をしても、大元は変わらない。

また荎草という漢方に用いられる植物は、甘味・酸味・辛味・苦味・塩味の
五つの味を持つことから五味子(ごみし)とも呼ばれている。
1つでありながら5つであり、5つでありながら1つである、面白い植物だ。
それから、帝釈天が手に持っている金剛杵(こんごうしょ)も、もとは1本であるが両端はいくつもの爪に分かれている。

およそ世界のあらゆるものの根源は「一」であるが、その姿は千差万別の広がりを持つ。
「一」のなかにすべてがあり、すべての根源は「一」なのだ。

歌だって同じである。
楽器を奏でれば人は歌を口ずさむ。
そして皆が一緒に歌うことで、人々の呼吸が揃っていく。
「一」から千の声が生まれ、千の声が新たな「一」を生む。

人は物事の真理を知り、真理に沿って生きることで幸せの何たるかを知る。
それは必ずしも容易なことではないかもしれないが、真理に背かなければ自ずと歩くことのできる道でもある。
易の占いでも「慎めば大吉」というではないか。
歩くべき道を歩いていれば、道を誤らないのは当たり前の話だろう。

人は誰もがその心に仏を宿している。無論、人だけに限りはしないが。
そのような仏というものは、悟ったから得られるとか、迷っているうちは得られないとか、そういったものではない。
考えも及ばないほどの多くの縁が関係し合って、来たるべきときが来れば自ずと知るものだ。
静かに、しかし明らかにはっきりと、仏のなんたるか、真理のなんたるかを知るものだ。

どれだけ小さなものの世界にも、どれだけ大きなものの世界にも、真理はあまねく満ち渡っている。
真理はそこら中に存在している。
いや、存在はすべて真理のあらわれであると言ったほうが正しいのだろう。
ただし、ピアノの調律が少しでもおかしいと途端に曲に違和感が生じるように、
真理というものを少しでも見誤れば、まったく見当違いな考えに支配されることになる。

禅には修行観の違いとして、頓悟と漸悟とがある。
一歩一歩階段を上るように悟りに近づくか、一気に最上段までジャンプするかの違いだ。
そうした違いは時代を経て一層細かくなり、宗派や教義といったものが立てられるようにまでなった。
それぞれの宗派が説く宗旨によって悟りに至ることはできるだろう。

だが悟りを得たとしても、それで自分の宗派がもっとも優れているなどと思い込んではいけない。
宗派という別に固執すれば、たとえ悟りを得たとしても、それは一つの執着でしかないからである。

執着に心が捉われれば、一見して不動の悟りを得たかに見えても、内では心が動揺し続けることになる。
不安と焦りに駆られて、少しも安らかでいられない。
それは綱につながれた馬のようであり、また隠れながら暮らす鼠のようでもあり、少しも心が自由でない。

そんな窮屈な暮らしをしていて楽しいかと、心ある先人は憐れんで教えを説いてきた。
安らかに生きることを求めながら、求めることで心が荒(すさ)むあべこべの生き方を正すために、仏法を広めてきた。
あなたの生き方は、まるで黒を白だと認識するような逆さまの生き方であると。

白黒が逆になった考え方や、妄想や執着から離れれば、安らかな素の心に戻ることができる。
穏やかな水鏡のような心を思い出すことができる。
だから先人が歩んだ道を自分も歩もうと思うなら、まずはその歩みがいかなるものであったかをよくよく考えなければならない。

昔、大通智勝仏は悟りを得ようとして十劫という永き時間修行を続けたが、結局悟りを得ることができなかったという。
もしも先人の歩みを知らずして、思い込みで修行すれば、時間はただ虚しく過ぎていくだけだろう。
それは虎が獲物を仕留めることができず欠伸あくびをするような、あるいは馬が綱でつながれて走れないような、本来の力を発揮できない虚しさに似ている。

修行に励む者は、みな機根が優れているわけではない。
自分は人よりも能力が劣っているから修行をしても悟りを得られないと諦めてしまう人もなかにはいるが、悟りは苦行の末に得るものではない。
はじめから有していたことに気付くものだ。

そうした尊い宝が誰の心にも宿っていることを、先人は説いて聞かせた。
そんな宝など自分は持っていないと驚いて信じようとしない者には、宝とは金銀財宝のことではなく、たとえば動物にも植物にも宿る「いのち」の不思議さ、尊さであると説いた。

中国の神話に登場する弓矢の名手であった羿(げい)は、その巧みな腕前で百歩離れた場所からでも的を正確に射抜いたという。
ほかにも、弓の名手同士が互いの腕前を競い合い、離れた場所から互いを目がけて矢を放ったところ、空中で矢がぶつかり合って落ちたという話も伝わっている。

こうした出来事は、単に鍛錬を重ねただけで起こるものではない。
もちろんたゆまぬ努力も必要だが、自分の力を超えた縁の力がそうさせたと考えるべきものだ。
それもまた「いのち」の不思議であると言えるだろう。

そんな不思議があるものかと疑うだろうか。
それではこれはどうだろう。
木の人形が歌い、石の女人が舞う姿を、あなたは見たことがあるか。

言葉に捉らわれ、知識でもってこれを考えれば、そんなことがあるわけがないと思うだろう。
しかし人は時に、歌わないはずの人形が歌っているかのように感じられることがあり、動かないはずの石女が舞っているかのように感じられることがある。
本当に声を出して歌うわけではない。手足を動かして舞うのでもない。
木も石も、存在が存在をまっとうするとき、そこには何ものにも代えがたい「いのち」の不思議なはたらきがあらわれている。
その歌声や舞を見聞きしたかということだ。

つまり、これらは知識で理解する範疇の事柄ではない。

家臣は主君に仕え、子は親の教えに学ぶ。学ばなければ孝行はなく、仕えなければ補佐は務まらない。
先人の言葉のなかには一見するとさっぱり理解できないような内容もあるが、主君に仕える家臣のように、親の教えを学ぶ子のように、導く者の言葉を信じることがただ1つの正しい道であるときもある。
くれぐれも常識という言葉で頭が凝り固まる前に、自由闊達な心と、あるがままの世界を受け止める見識を心に留めておいてほしい。

修行とはひけらかすものではなく、誰も見ていなくてもいつも同じように続けるものである。
人は物事の奥底まで考えを及ばせることをあまりしないから、人知れず努力する者の努力に気付かないことも多い。
その結果、あの人は努力をしない愚か者だと思うこともあるだろう。
しかし本当に愚かなのは誰か、考えるまでもなく答えは明らかだ。

歩むべき道について考え、先人の歩みを参考にし、愚鈍なまでに実直にその道を歩む。
それが仏道を歩むということである。
そうして生きることで、自分とは何かという答えもまた得られることだろう。

ただただ道を歩む。
それが、本当の自分が発揮される生き方なのである。