千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼

【原文】

南無喝囉怛那哆羅夜耶。南無阿唎耶。婆盧羯帝爍鉗囉耶。菩提薩埵婆耶。摩訶薩埵婆耶。摩訶迦盧尼迦耶。唵。薩皤囉罰曳。數怛那怛寫。南無悉吉利埵伊蒙阿唎耶。婆盧吉帝室佛囉楞馱婆。南無那囉。謹墀醯唎。摩訶皤哷。沙咩薩婆。阿他豆輸朋。阿逝孕。薩婆薩哷。那摩婆伽。摩罰特豆。怛姪他。唵。阿婆盧醯。盧迦帝。迦羅帝。夷醯唎。摩訶菩提薩埵。薩婆薩婆。摩囉摩囉。摩醯摩醯唎馱孕。俱盧俱盧羯蒙。度盧度盧罰闍耶帝。摩訶罰闍耶帝。陀囉陀囉。地利尼。室佛囉耶。遮囉遮囉。摩摩罰摩囉。穆帝隸。伊醯伊醯。室那室那。阿囉參佛囉舍利。罰沙罰參。佛囉舍耶。呼盧呼盧摩囉。呼盧呼盧醯利。娑囉娑囉。悉利悉利。蘇嚧蘇嚧。菩提夜菩提夜。菩馱夜菩馱夜。彌帝唎夜。那囉謹墀。地利瑟尼那。婆夜摩那。娑婆訶。悉陀夜。娑婆訶。摩訶悉陀夜。娑婆訶。悉陀喩藝。室皤囉夜。娑婆訶。那囉謹墀。娑婆訶。摩囉那囉。娑婆訶。悉囉僧阿穆佉耶。娑婆訶。娑婆摩訶悉陀夜。娑婆訶。者吉囉阿悉陀夜。娑婆訶。波陀摩羯悉陀夜。娑婆訶。那囉謹墀皤伽囉耶。娑婆訶。摩婆唎勝羯囉耶。娑婆訶。南無喝囉怛那哆羅夜耶。南無阿唎耶。婆盧吉帝。爍皤囉耶。娑婆訶。悉殿都。漫哆囉。跋陀耶。娑婆訶。

 

【ふりがな】

なむからたんのーとらやーやー。なむおりやーぼりょきーちーしふらーやー。ふじさとぼーやーもこさとぼーやー。もーこーきゃーるにきゃーやーえん。さーはらはーえいしゅーたんのーとんしゃー。なむしきりーといもーおりやー。ぼりょきーちーしふらーりんとーぼー。なむのーらー。きんじーきーりー。もーこーほーどー。しゃーみーさーぼー。おーとーじょーしゅーべん。おーしゅーいん。さーぼーさーとーのーもーぼーぎゃー。もーはーてーちょー。
とーじーとーえん。おーぼーりょーきー。るーぎゃーちーきゃーらーちー。いーきりもーこー。ふじさーとー。さーぼーさーぼー。もーらーもーらー。もーきーもーきー。りーとーいんくーりょーくーりょー。けーもーとーりょーとーりょー。ほーじゃーやーちーもーこーほーじゃーやーちー。とーらーとーらー。ちりにーしふらーやー。しゃーろーしゃーろー。もーもーはーも-らー。ほーちーりー。ゆーきーゆーきーしーのーしーのー。おらさーふらしゃーりー。はーざーはーざー。ふらしゃーやー。くーりょーくーりょー。もーらーくーりょーくーりょー。きーりーしゃーろーしゃーろー。しーりーしーりー。すーりょーすーりょー。ふじやーふじやー。ふどやーふどやー。みーちりやー。のらきんじー。ちりしゅにのー。ほやものそもこー。しどやーそもこー。もこしどやーそもこー。しどゆーきーしふらーやーそもこー。のらきんじーそもこー。もーらーのーらーそもこー。しらすーおもぎゃーやーそもこー。そぼもこしどやーそもこー。しゃきらーおしどーやーそもこー。ほどもぎゃしどやーそもこー。のらきんじーはーぎゃらやーそもこー。もーほりしんぎゃらやーそもこー。

 

【現代語訳】

仏法僧の三宝に帰依し奉る。

大悲者なる聖観自在菩薩に帰依し奉る。

おお、一切の恐怖を除去し給う者に帰依し奉る。

已に聖観自在菩薩に帰依し終わり

私はまさにこの光輝ある観音の真言を宣説す。

この真言は、一切の願いを満足させ

一切の鬼神も打ち勝つことが出来ない。

迷える衆生が清浄になる真言である。

いわゆる

オーン

光明のごとき智慧を持つ者である

この世界を超越した

大菩薩を奉請し奉る。

大菩薩よ

菩薩よ、菩薩よ

憶念せよ、憶念せよ

一切の塵垢を無くした清浄の心で常に

真言

行為せよ、行為せよ

よく保持して

勝利者

最勝なる王者よ

保持せよ、保持せよ

聖観自在菩薩よ

行動せよ、行動せよ

無垢清浄の本体よ

(不明)

来たれよ、来たれよ

(不明)

貪瞋痴の三毒

取り去りたまえ

無垢清浄の本体たる

菩薩よ

流れ出でよ

現れ出でよ

進み出でよ

我等を悟入させ

自覚覚他覚行円満ならしめよ。

慈悲の権化である観音よ

貪欲の我等を満足させよ。

悉地を成就し

大悉地を成就し

瑜伽自在を成就し

観音の御心を体得させ

無垢清浄なる

獅子王のような勇者となり

あらゆる存在にその身を応現することを得て

輪宝を得

蓮華手を得て

自由に説き自在に済度することを得て

観音の総てを学び終わった。

仏法僧の三宝を敬礼し奉る

聖観自在菩薩に帰依し奉る。

あらゆる物を成就し

具足し

あらゆる吉祥を得て究竟す。

 

般若心経 現代語訳

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

「仏の説く偉大な仏の智慧の悟りを開く核心の教え」

観自在菩薩は真実に目覚める智慧の行を努められて、身も心も「空」であることを悟られ、一切の苦しみから救われる道を示された。
シャーリプトラよ、形あるものは空であり、空が形あるものを構成している。
したがって、形あるものはすべて空であり、空がもろもろの形あるものになっていて、感覚も、思いも、分別も、認識も、これと同様である。
シャーリプトラよ、この世の一切のものの真実の相は、みな空であって、生ずることもなく、なくなることもなく、垢れもせず、浄らかにもならず、減りもせず、増えもしない。
故に、空が構成する実相の世界では、形あるものは何もなく、感覚も、思いも、分別も、認識も、何もない。
そこには、眼も、耳も、鼻も、舌も、身体も心もなく、また、形も、声も、香りも、味わいも、触覚も、心の作用もない。
眼に見える世界から意識の世界までもない。
無知でいる必要もなく、無知から脱して悟ることもない。
老死もなく、老死の尽きることもない。
また、苦も、苦の原因も、苦のなくなることも、苦をなくす道もない。
さらに、教えを知ることもなく、悟りを得ることもない。
このように、何も得ることがないということを菩薩は真実に目覚める智慧によって、あるがままに見ることができるから、心に障りがない。
心に障りがないから怖れることがない。
したがって、一切の迷いを離れて、心の安らぎに至るのである。
三世の仏達も真実に目覚める智慧によって、完全な悟りを成熟されたのである。
故に真実に目覚める智慧である「般若波羅蜜多」の教えは、大いなる霊力を持った言葉であり、明らかなる言葉であり、この上ない言葉であり、他に比類のない言葉である。
したがって、一切の災厄を除き、真実にして虚しさがない。
そこで真実に目覚める智慧に至る呪文を説こう。すなわち、その呪文とは…。

ギャーテイ (往ける者よ)
ギャーテイ (往ける者よ)
ハーラーギャーテイ(迷いの世界から悟りの世界に行け)
ハラソウギャーテイ(迷いを断ち切り)
ボージーソワカー(悟りを成熟せよ)

般若心経「悟りに至るための重要な教えを終わる」

妙法蓮華経如来寿量品偈

私が仏になってから経過した期間は、百千万億という長い時間です。その間に教えを説いて数限りない人々を教化し、仏の道に導いてきました。それから長い時間が経過しました。
人々を救うために、一度は(釈迦として)死んだ姿をとりましたが、実際に死んだのではなく、常にこの世界にいて法を説いているのです。私は常にこの世に現れていますが、神通力によって迷っている人々には、姿を見せないようにしているのです。人々は私の死を見て、私の遺骨を供養し、私をなつかしく思い、慕い敬う心を起こしました。人々が信仰心を起こし、心が素直になり、仏に会いたいと願い、そのために命も惜しまないように、その時私は、弟子たちと霊鷲山に姿を現します。そして人々に語ります。

「私は常にこの世界にあり、不滅ですが、人々を導く手段として死んでみせたのです」と。
他の国土の人々も、私を信じ敬うならば、その人々のためにも、「私は最高の教えを説くでしょう」。
あなたたちはこれを信ぜず、私が死んだと思っています。私がみるところ、人々は苦しみの中にあえいでいます。
だから姿を現わさず、すがる心を起こさせたのですが、今私を仰ぐ心が起こったので、こうして姿を現し教えを説くのです。

私の神通力はこのようにすばらしく、永遠の昔から、常にここ霊鷲山や、またこの世界の場所にいます。
人々がこの世が終わりを迎え、種々の災害が起こると思っているときでも、私の国土は安らかで天人や人々で一杯です。
その世界の花園や宮殿は、種々な宝石で飾られ、木々には多くの花や実がなり、人々はそれらを楽しんでいます。
天人たちは天の楽器をならし、常に多くの音楽を演奏し、マンダラの花が、仏や人々の上に降り注いでいます。
私の国土は不滅であるのに、人々はこの国土の終わりが迫って、あらゆる苦しみや悩みに溢れていると錯覚しています。

罪を重ねてきた人々は、悪い行為の結果、どんな長い時が過ぎても、仏の教えを聞くことができませんが、善い行為をなし、心が素直な人々は、皆私の姿を見られますし、私の教えを聞くこともできます。
こうした人々に、仏の寿命は永遠であると説き、やっと仏の姿を見ることができた者には、仏の姿を見るのは困難だと説きます。

私の智恵の働きがこれほど優れ、その光はどこまでも照らし、寿命が永遠なのは、過去の長い間の修行の結果なのです。
もしあなたたちに智恵があれば、私のいったことを疑ってはいけません。疑う心を完全になくして下さい。
仏の言葉は常に真実です。例えば医者が、狂った子供たちを技法を以て救うために、
生きているのに死んだと言ったのが嘘でなかったように、私も人々の父として、彼らの苦しみを救おうとしているのです。

人々は迷っているので、私が死んだと錯覚しています。私が常に姿を現わしていますと、なまけ心を起こし、欲望に捕われて、悪世界に堕ちることになります。そこで私はいつも人々が、正しい道を歩んでいるかを見極め、どうすれば救えるかを考えながら、ふさわしい教えを説いています。

そして常に、「どうすれば人々を最高の教えに導き、
一刻も早く仏に成るだろうか」と常に念じているのです。

参同契

インドに生まれ、人の道(仏法)を説き続けたブッダの教えは、西から東へ、つまりはインドから中国へと大切に伝えられた。
これを理解しようとする人々の頭脳は、当然のことながら一人ひとり異なっている。
賢い者がいれば愚鈍な者もいる。
しかし仏法は誰にでも理解することのできる普遍的な教えであるから、いずれは誰でも知ることができる。

教えの源であるブッダの言説まで遡れば、その説くところに歪みはない。
透き通った水のように、教えの底まで見通すことができる。
しかし時代を経るにつれ、教えの解釈は樹木のように枝分かれし、少しずつわかりにくくなってしまった。

細かな支流の1つだけを見て、それが教えのすべてかと思い込んでしまえば、もはや源を見失ってしまったのも同然だろう。
では教えの源さえ知れればもうそれでいいのかといえば、それもまた悟りとはいえない。

人には感覚器官という外界を感じる6つの門がある。
眼で色を見て、耳で音を聞き、鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を味わい、身で物を触れ、意識で思い考える。
そうして外界を知覚し、外界を理解し、外界と自分とが別物でないことを体験的に感じていく。
こうした自然と自己が相互に関係し合う世界を感じることができなければ、人は断絶した「個」の世界に閉じこもるしかない。

物体は様々で、見た目も性質も異なっている。
声一つとってみても、高い低いの別があり、心地良いうるさいの別がある。
それらに対して好き嫌いをいわなければ、そこに優劣は生まれない。
みな平等だ。

しかし分別して別物と認識することで、人は区別の世界を生きることになる。
物体を構成する要素は元々すべて自然に帰するものであり、自然と一体のものであるにもかかわらず。
あたかも母を求める子どものように、自然と自己とは一心同体のもの、人間は自然の一部なのである。
本来、分けて考えることなどできないはずのものであろう。

自然を眺めてみれば、火は熱く、風は吹き渡り、水は潤い、大地は堅固にして万物を支えている。
人間を観てみれば、視覚、聴覚、嗅覚、味覚といった区別がある。
それら一つひとつの事柄は、根本から枝分かれしていった末端のようなものと考えられる。

末端とは何か。
根源とは何なのか。
物事は本当に分かれているのか。
それとも同じなのか。
重要なのはここである。

たとえば世界の人々はその国独自の言語によって言葉を発している。
「日本語」「英語」「フランス語」といった言語という区別はあるが、それはどれも言葉という大きな源から生まれたものだろう。
表面上は違うように思えるが、根本は何も違わない。

自分と自然とを区別する、あるいは根源と末端を区別するというような物の見方をしていても、ふと、それらが別物ではないと感じる時がある。
ではそれらは同じものかと言えば、現象としては別物として存在している。
認識というのは曖昧で、同じようにも思え、別のようにも思えるものなのだ。

それをどちらか一方に限定する必要はない。
事実私たちは、明暗という対極の認識を行ったり来たりしながら生きる者だからである。
右足を出せば、今度は自ずと左足が前に出るだろう。
私たちの生き方はこの両足と似ている。

あらゆる存在には、その存在特有の性質が備わっている。役割と言ってもいい。
そうであるから、役割に応じた居場所を見つけることはとても大事なことだ。
たとえば火は熱い性質を持っており、調理の際などに非常に役立つ。
役割と居場所が噛み合えば、箱と蓋が合致するように物事はうまく進む。


また、その役割が真理にかなうものであれば、2本の矢の先端がぴったりと合わさったかのごとく、的確に当を得ることができるだろう。
話を聞くときも同じだ。
どのような話でも、そこから真理を学ぶのでなければ、真にその話を聞けたことにはならない。
くれぐれも自分勝手な解釈を持ち出して、真理を歪めて受け取ることがないように。

歩むべき道がわからない時、闇雲に歩を進めても正しい道を見つけることはできない。
歩けばどこかに近づく。どこかからは遠ざかる。
そんなふうに当てずっぽうで思慮なく生きる者は、深い森に迷い込んでしまうだけだ。

正しい道を歩まなければ、人の道を歩んでいることにはならない。
だから「道」を歩もうと志すすべての人に申し上げる。
二度と廻ってくることのない「今」をないがしろにして、人生を虚しく空費するような生き方だけは、どうかしないでほしい。

寶鏡三昧

見えるがままだ。
真実はありのまま、何一つ隠すことなく堂々と目の前にあらわれているではないか。

そのような言葉で、ときに論理を超越して弟子たちに真理を説いてきたブッダの教えは、弟子から弟子へ、綿々と受け継がれてきた。
今、この書物を読む者は、そうしたブッダの教え聞く者の1人である。
ブッダが説いた真理をよくよく学んで、後世にも大切に伝えていってほしい。

さて、私たちが受け継いだブッダの教えとは、一体何なのだろうか。
たとえばここに銀の椀があるとしよう。
そこに真っ白な雪を盛り付けたらどうなると思うだろうか。
おそらく両者は見分けがつきにくくなることだろう。
同様に、明るい月が白々とした光を照らす下では、白鷺が佇んでいたとしても光に溶け込んで見つけられないかもしれない。

しかし、どれだけ似通って同じように見えるものであったとしても、当然のことながらそれらは同じものではない。
銀は雪ではなく、雪は銀でない。
両者は別物であるわけだが、混じり合っていれば、あきらかに別物と認識することもできない。
同じなのか、別なのか。別ではないが、異なるのでもない。
存在とは不思議なものだ。

存在の在り方というのは、このように至極微妙な位置に存在している。
同じようでも別なようでもあり、有るようで無いようなもの。
その不思議さを、存在の不思議として受け入れることを、教えの第一歩目としよう。

この不思議を言葉で説明するのはとても難しい。
古来、多くの人々が様々な言葉でこれを表現してきたが、はたして言い当てることができた者がいただろうか。
「如是」と一言で指し示し、余計な説明を加えなかったブッダの教えの手法は、なるほど素晴らしい機知であった。

この不思議を人々は真理と呼び、皆これを求めた。
しかし真理という言葉の意味にとらわれれば、言葉の穴に落ちていくようなもので、到底真理そのものを手に摑むことはできない。
逆に言葉を無視したとしても、それは真理から目をそむけただけで、結局は真理の道を歩いてはいない。
近づくのも遠ざかるのも、どちらも真理には程遠い。

たとえば、寒い日に当たる火は温かいだろう。
けれども火はそもそも温かいものではない。
近づいて触れれば火傷をする熱いものであり、離れすぎれば身体にまで熱が届かず冷たいものだ。

では本来の火とはどのようなものなのか。
あるいは火の温かさとは何によって決まっているのか。
これが、わかるだろうか。

このことを説くために、祖師方はいろいろな言葉を用いてきた。
私(洞山)は石頭禅師の孫弟子になるが、たとえば石頭禅師は『参同契』のなかでこう表現している。
「明中に当たって暗あり、暗相をもって遇うことなかれ。暗中に当たって明あり、明相をもって見ることなかれ」

これを火で考えてみれば、「火に近づけば熱いが、火を熱いものだと思ってはいけない。火から遠ざかれば寒いが、火を冷たいものだと思ってはいけない」となるのではないだろうか。
この意味がわかるか。

闇夜のなかでも月の光が届けばそれなりに明るい。
夜明けであっても太陽が姿をあらわすまではまだ薄暗い。

では、夜は暗いものだというのは、はたして真実だろうか。
夜明けは明るいというのは、はたして真実だろうか。
暗い、明るいとは、一体何によって決まっているのだろうか。

闇夜にも夜明けにも、暗い明るいにも真理はある。
法則と言い換えてもいい。
苦しみにも真理があるから、苦を真理で取り除くことだってできるだろう。
けれども人はその真理というものを、先ほどの火の話のように、熱いか冷たいかの二極で捉えようとする。

しかし、物事は本当に表と裏の二面しかないのだろうか。
あるいは二面で考えてよいものなのだろうか。

鏡に映る自分の姿を想像してみてほしい。
鏡の前に立つ自分と、鏡の中に映る自分。
そのどちらが本物の自分だと思うか。

無論、鏡の前に立つ自分だと思うことだろう。
しかし、たとえばその自分が血を流せば、鏡の中の自分も血を流す。
したがって両者はまったくの別人であるとも言い難い。

自分と自分が向かい合い、互いを見つめ合う。
両者はまったく同じ動きをするが、それでもやはり同じではない。
真に形があるのは鏡の前の自分で、鏡の中の自分は、あくまでも自分の影だ。

鏡でなくても、人は自分というものを外に見出そうとする生き物である。
しかし自分を探そうとしても、どこにも自分などいない。
自分を探そうとしているこの自分、それこそ正真正銘の自分でなくて何なのか。
最初からはっきりと存在している自分自身に目を向けず、外に自分を探し求める姿は虚しさの極みだ。

自分を探し右往左往する様は赤ん坊のようでもある。
どこに向かうでもなくウロウロし、起き上がったり寝転んだり、時々「バーバー」「ワーワー」と声を出してはみても、意味のある言葉にはならない。
言葉を得ていない赤ん坊のように、一番近くにいる自分を観ていないのである。

中国の占いの一種に、易(えき)がある。
この易で使用する6本の算木は、方式にしたがって並べ重ねていくとやがて元の形にもどるようになっている。
どれだけ変化をしても、大元は変わらない。

また荎草という漢方に用いられる植物は、甘味・酸味・辛味・苦味・塩味の
五つの味を持つことから五味子(ごみし)とも呼ばれている。
1つでありながら5つであり、5つでありながら1つである、面白い植物だ。
それから、帝釈天が手に持っている金剛杵(こんごうしょ)も、もとは1本であるが両端はいくつもの爪に分かれている。

およそ世界のあらゆるものの根源は「一」であるが、その姿は千差万別の広がりを持つ。
「一」のなかにすべてがあり、すべての根源は「一」なのだ。

歌だって同じである。
楽器を奏でれば人は歌を口ずさむ。
そして皆が一緒に歌うことで、人々の呼吸が揃っていく。
「一」から千の声が生まれ、千の声が新たな「一」を生む。

人は物事の真理を知り、真理に沿って生きることで幸せの何たるかを知る。
それは必ずしも容易なことではないかもしれないが、真理に背かなければ自ずと歩くことのできる道でもある。
易の占いでも「慎めば大吉」というではないか。
歩くべき道を歩いていれば、道を誤らないのは当たり前の話だろう。

人は誰もがその心に仏を宿している。無論、人だけに限りはしないが。
そのような仏というものは、悟ったから得られるとか、迷っているうちは得られないとか、そういったものではない。
考えも及ばないほどの多くの縁が関係し合って、来たるべきときが来れば自ずと知るものだ。
静かに、しかし明らかにはっきりと、仏のなんたるか、真理のなんたるかを知るものだ。

どれだけ小さなものの世界にも、どれだけ大きなものの世界にも、真理はあまねく満ち渡っている。
真理はそこら中に存在している。
いや、存在はすべて真理のあらわれであると言ったほうが正しいのだろう。
ただし、ピアノの調律が少しでもおかしいと途端に曲に違和感が生じるように、
真理というものを少しでも見誤れば、まったく見当違いな考えに支配されることになる。

禅には修行観の違いとして、頓悟と漸悟とがある。
一歩一歩階段を上るように悟りに近づくか、一気に最上段までジャンプするかの違いだ。
そうした違いは時代を経て一層細かくなり、宗派や教義といったものが立てられるようにまでなった。
それぞれの宗派が説く宗旨によって悟りに至ることはできるだろう。

だが悟りを得たとしても、それで自分の宗派がもっとも優れているなどと思い込んではいけない。
宗派という別に固執すれば、たとえ悟りを得たとしても、それは一つの執着でしかないからである。

執着に心が捉われれば、一見して不動の悟りを得たかに見えても、内では心が動揺し続けることになる。
不安と焦りに駆られて、少しも安らかでいられない。
それは綱につながれた馬のようであり、また隠れながら暮らす鼠のようでもあり、少しも心が自由でない。

そんな窮屈な暮らしをしていて楽しいかと、心ある先人は憐れんで教えを説いてきた。
安らかに生きることを求めながら、求めることで心が荒(すさ)むあべこべの生き方を正すために、仏法を広めてきた。
あなたの生き方は、まるで黒を白だと認識するような逆さまの生き方であると。

白黒が逆になった考え方や、妄想や執着から離れれば、安らかな素の心に戻ることができる。
穏やかな水鏡のような心を思い出すことができる。
だから先人が歩んだ道を自分も歩もうと思うなら、まずはその歩みがいかなるものであったかをよくよく考えなければならない。

昔、大通智勝仏は悟りを得ようとして十劫という永き時間修行を続けたが、結局悟りを得ることができなかったという。
もしも先人の歩みを知らずして、思い込みで修行すれば、時間はただ虚しく過ぎていくだけだろう。
それは虎が獲物を仕留めることができず欠伸あくびをするような、あるいは馬が綱でつながれて走れないような、本来の力を発揮できない虚しさに似ている。

修行に励む者は、みな機根が優れているわけではない。
自分は人よりも能力が劣っているから修行をしても悟りを得られないと諦めてしまう人もなかにはいるが、悟りは苦行の末に得るものではない。
はじめから有していたことに気付くものだ。

そうした尊い宝が誰の心にも宿っていることを、先人は説いて聞かせた。
そんな宝など自分は持っていないと驚いて信じようとしない者には、宝とは金銀財宝のことではなく、たとえば動物にも植物にも宿る「いのち」の不思議さ、尊さであると説いた。

中国の神話に登場する弓矢の名手であった羿(げい)は、その巧みな腕前で百歩離れた場所からでも的を正確に射抜いたという。
ほかにも、弓の名手同士が互いの腕前を競い合い、離れた場所から互いを目がけて矢を放ったところ、空中で矢がぶつかり合って落ちたという話も伝わっている。

こうした出来事は、単に鍛錬を重ねただけで起こるものではない。
もちろんたゆまぬ努力も必要だが、自分の力を超えた縁の力がそうさせたと考えるべきものだ。
それもまた「いのち」の不思議であると言えるだろう。

そんな不思議があるものかと疑うだろうか。
それではこれはどうだろう。
木の人形が歌い、石の女人が舞う姿を、あなたは見たことがあるか。

言葉に捉らわれ、知識でもってこれを考えれば、そんなことがあるわけがないと思うだろう。
しかし人は時に、歌わないはずの人形が歌っているかのように感じられることがあり、動かないはずの石女が舞っているかのように感じられることがある。
本当に声を出して歌うわけではない。手足を動かして舞うのでもない。
木も石も、存在が存在をまっとうするとき、そこには何ものにも代えがたい「いのち」の不思議なはたらきがあらわれている。
その歌声や舞を見聞きしたかということだ。

つまり、これらは知識で理解する範疇の事柄ではない。

家臣は主君に仕え、子は親の教えに学ぶ。学ばなければ孝行はなく、仕えなければ補佐は務まらない。
先人の言葉のなかには一見するとさっぱり理解できないような内容もあるが、主君に仕える家臣のように、親の教えを学ぶ子のように、導く者の言葉を信じることがただ1つの正しい道であるときもある。
くれぐれも常識という言葉で頭が凝り固まる前に、自由闊達な心と、あるがままの世界を受け止める見識を心に留めておいてほしい。

修行とはひけらかすものではなく、誰も見ていなくてもいつも同じように続けるものである。
人は物事の奥底まで考えを及ばせることをあまりしないから、人知れず努力する者の努力に気付かないことも多い。
その結果、あの人は努力をしない愚か者だと思うこともあるだろう。
しかし本当に愚かなのは誰か、考えるまでもなく答えは明らかだ。

歩むべき道について考え、先人の歩みを参考にし、愚鈍なまでに実直にその道を歩む。
それが仏道を歩むということである。
そうして生きることで、自分とは何かという答えもまた得られることだろう。

ただただ道を歩む。
それが、本当の自分が発揮される生き方なのである。

曹洞宗「修証義 第五章 行持報恩」

第二十六節
人間としてこの世界に生まれたのなら、折にふれて「ブッダならどうするだろうか」と思惟し、自分もまた人々を救う菩薩として生きていこうという志しを立てることが肝要である。
私たちは人間世界に人間として生まれ、苦楽相半ばする人生を送っている。
苦楽があるからこそ、精進しようという心が生まれるのである。
私たちは不思議な巡り合わせでこの世界に生まれた。
それはただの偶然ではなく、仏の道を歩むため、自らの誓願によってこの世界に生を受けたものだと言えるのではないか。
だから菩薩としての人生を全うし、仏教と出会えてことを喜ぼうではないか。


第二十七節
静かに考えてみなさい。
「本当に正しいことは何か」と説き続けたブッダの教えが世に広まっていなかったら、
ブッダのように生きようと思っても、教えが存在しないのだからわからないことばかりである。
幸いにも仏法の何たるかを知ることができる環境にいるのだから、その教えを学ぶことが大切だ。
ブッダはこう言っている。
「本当に正しいこと」を考え、それを説く人に出会ったなら、生まれや性別や年齢や外見に関係なく、その言葉に耳を傾けなさい。
その人の欠点やどうにも好きになれない行いがあっても、それらの理由でその人の言葉を嫌ってはいけない。
真実についての教えは、必ず敬うように。
そして、礼節をもって接し、尊敬の念をもってその言葉から真実を学びなさい、と。


第二十八節
今私たちが仏と出会い、その教えを聞くことができるのは、これまで仏の教えを伝え続け、仏の道を歩んでこられた大勢の方々がいたからである。
尊い恩恵を、私たちは受けているのだ。
コップ一杯の水を別のコップに丸々移すようにして、こぼさずに受け継がれてきたからこそ、2500年も昔の教えが今もなお現代に残っているのである。
それほどに尊い仏法なのだから、一句でも、一語でも、その教えを学んだ際には感謝の心を起こさなくてはならない。
真実を説く教えに出会えたなら、報恩の心で生きなければいけない。
雀や亀を助けたら恩返しを受けたという故事がある。
動物であってもそのように恩を忘れずに生きている。
人間が恩を忘れて生きるようなことがあってはならないだろう。


第二十九節
仏の恩に報いる生き方はいろいろあるが、恩を返そうと思うのではなく、自分もまた仏の道を歩むことこそが、もっともすぐれた報恩の行いである。
仏の生き方に学び、仏の生き方にならって自分の人生を歩んでいけば、それこそが恩に報いる正しい道となるのだ。
だから日々の生活を修行そのものととらえ、修行を持続して日々をなおざりにしないように生きていきなさい。
くれぐれも、自分の欲にふりまわされ欲の奴隷のように生きることがないように。
特別な行いをする必要はないから、毎日を大切にして生きていきなさい。


第三十節
時が経つのは射られた矢よりも早い。
私たちの命は道端の草に宿った朝露よりも儚い。
どんなことをしても、一度過ぎ去った時間をもとに戻すことはできない。
だから、ただ空費するように歳月を生きるのでは虚しいだけで、正しく生きなければ悲しい人生となってしまう。
もし、これまでの多くの時間を無駄に過ごしてきてしまったと思うのなら、これからを改めればいい。
人生のなかでたとえ1日でも仏の心をおこし、仏の生き方ができたなら、無駄にしか思えない人生だったとしても、これまで生きてきてよかったと思えるようになる。
そしてこれからの人生を方向づける、尊い1日となる。
この1日を生きた自分は、尊ぶべき存在である。
ブッダと同じように生きることができた自分の身と心を愛してあげなさい。
自分自身を敬ってあげなさい。
私たちが仏の道を歩めば、1人の仏がこの世界に姿を現わしたことになる。
祖師たちが生きた証しが、自分を通して現代にあらわれるのである。
仏の道を歩む1日を過ごせば、仏の種を蒔く1日となる。
仏の生き方をすれば、その時、人は仏になっている。


第三十一節
仏というのは、つまりブッダのことである。
そしてブッダとは、仏の道を歩もうとする私たち人間のことである。
仏の心でこの人生を生きたなら、人は仏としてこの人生を生きているのだ。
いつの時代を生きる人であっても、仏の道を歩めば、必ずブッダとしての人生を歩んでいることになる。
ブッダがどこに存在しているか知っているか。
1人ひとりの心のなかに存在しているのだ。
それを「即心是仏」という。
この心こそが仏である、という意味だ。
即心是仏とは誰なのか。
仏とは誰なのか。
自分とは誰なのか。
この問いを生涯忘れてはいけない。
このことをいつも考えていなさい。
この答えがわかったとき、真に仏の恩に報いる生き方ができるようになるだろう。

曹洞宗「修証義 第四章 発願利生」

第十八節
仏の道を歩いていこうとすることは、自分の幸せよりも周囲の人の幸せを考える生き方を志すということでもある。
在家の人であろうと、出家して僧侶となった者であろうと、どのような境遇にあっても、
自分の幸せよりも人の幸せを願うような心をおこして生きていきなさい。


第十九節
どのような容姿・年齢であっても、仏の道を歩く者は人々を導く師である。
小さな女の子がふいに発した何気ない一言に気付かされ、頭の下がる思いをすることもあるだろう。
正しい言葉は、誰が言ったかに関わらず、人を導く力をそなえている。年齢や性別は問題ではない。
真実の前に人はみな平等であるというのは、仏道のすぐれた知見の1つだ。


第二十節
人が生きる世界には、苦楽の違いがあり、順境逆境といった別がある。
しかしどのような世界に生きていようとも、正しい心で生きるならその人生は尊いものになる。
本当の貧しさとは暮らしぶりのことではない。心の貧しさこそが、真の貧しさだ。
諦めてしまったり、腐ってしまったり、投げやりになったり、
人生にはそのような暗い気持ちが心を覆い尽くしてしまうような時もある。
しかしそうした状況にあっても、自分の心を奮い起こす努力を忘れてはいけない。
人の幸せを願うその祈りの力は、自分の心を奮い起こす原動力にもなる。
仏の道を歩んだかつての祖師方は、これでもう十分人のために生きたと、上限を定めるようなことはしなかった。
どこまでもどこまでも、人を救い、人のために生きることが、自らの幸せそのものとなっていた。
人の幸せを願うのに、終わりというものは存在しないのだ。


第二十一節
人の幸せを願う生き方ということについて、具体的には次の4つの実践徳目がある。
1.布施(施しをする)
2.愛語(優しい言葉をかける)
3.利行(手助けをする)
4.同事(自分のこととして考える)
これらこそ、仏の道を歩む者の誓願であり実践である。
その1つ目の布施というのは、所有したいという種の欲を貪らないことをいう。
何でもかんでも欲しいと思い、自分のものにしたいという心を離れることが布施の根本であるから、
自分の物を人に施すだけが布施なのではない。
施すという行為が尊いのであって、施す物が貴重なものだから尊いということでもない。
そうであるから、真理に適ったことを一言でも伝えたなら、それも布施である。
僅かな金銭でも、道に咲く草花であっても、心を込めて人に贈れば、それも立派な布施となる。
それらは善い果報を生む種にもなる。
真理を伝えても、食べ物にはならない。食べ物を施しても、真理はわからない。
真理と物とは互いを補い合う布施であり、車の両輪のようなものであるから、
それらはどちらも大切な布施となりえるのだ。
だから相手の返礼を期待するような心や、施したあとで「惜しいことをした」と思うような心は捨てて、
ただ人の幸せを願い、自分の力を人に分け与えなさい。
力とは技術のことでもある。自分が身につけた技能、たとえば河に舟を浮かべて人を対岸に渡すことや、
橋を架けて交通の利便をはかることも布施である。
仕事をするということも、世のため人のためになることが根本にあるのだから、
それらもすべて布施であると言えるだろう。


第二十二節
2つ目の愛語とは、人に対して慈しみの心でもって声をかけることをいう。
親が我が子を育てるときの言葉を思い出すといい。親の慈しみの言葉は、優しいときもあれば厳しいときもある。
叱らなければならないことは、叱るのが愛なのだ。
正しく育ってほしいと願うとき、単に優しい言葉をかけるだけが子の成長につながるのではないことは、
親でなくてもわかるだろう。
徳のある行いをしたときは誉めてあげなさい。徳のない行いをしたときは「そうではない」と諭してあげなさい。
憎み合っていた者同士が和解するのも、目上の人から下された無謀難題が撤回されるのも、
すべては正しさを伝えようとする愛語から生まれる。
面と向かって誉められれば心は嬉しくなる。面と向かわずして人が自分のことを認めてくれていたことを知れば、
その心遣いに深く感謝し、これからも正しく生きていこうという気持ちを新たにする。
愛語を聞いた者は、その言葉を肝に銘じ魂に刻む。
愛語にはそれほどまでに人の世をひっくり返すほどの大きな力があることを知っておいてほしい。


第二十三節
3つ目の利行というのは、富める者、貧しい者に関わりなく、その人のためになる手助けを惜しまないことをいう。
窮地にある亀を助けたり、弱った雀を看病して回復させたりして恩返しを受けて出世した故事があるが、
それらは恩返しを期待して行ったわけではなかった。
ただ「助けずにはおれない」という心から突き動かされた行動であった。そうした心から行われ手助けが利行である。
愚かな者は、人を助け、人の利益になることをすれば、自分が損をすると考える。しかしそうではない。
1つしかないものを取り合うような発想ではなく、1つしかないのであれば、それを全員で共有するような心でいることだ。
自分の力を自分のためだけに使えば、それは自分を超えるはたらきにはならない。しかし力を人のために使ったとき、
そのはたらきは自分という枠を超えて大きな広がりをみせる。
そのような広がりを持った力は、自分のみならず、他者のみならず、あまねく人に利益をもたらす。


第二十四節
4つ目の同事というのは、自分と人とが違わないことをいう。
違わないとは、相手と同じ立場になって物事を考えること、相手を受け入れるということでもある。
たとえば人の世に生きる仏は人の姿をしているのと同じように、人を救おうと考えれば、
その人にとって何が救いとなるか、その人と同じ状況を想定していなくてはいけない。
自分の立場からのみ物事を考えていては同事の行いはできないのだ。
人ははじめ、自分と他者は違う存在であるように考える。それはいたって普通の感覚である。
しかし仏道を歩み見識を深めると、自分と他者とが別の存在とは思えなくなる。
他者のなかに自己をみることがあれば、自己のなかにも他者をみることもある。
それはあたかも、幾千の河の水が流れ込むことで1つの海を形成しているようなもので、
河の水を区別することなく受け入れるから、海は海として存在することができている。
ここらへんの海の水はこの河の水で、あそこらへんの水はあの河の水というような区別をせず、
違いを設けないから海は海でいられる。
多くの河の水が集まって1つの海を形成するがごとく、
他者と自分とのあいだに垣根を作ることなく1つの世界を生きてほしい。


第二十五節
以上のように、仏の道を歩もうとするときは、布施・愛語・利行・同事の4つの心を忘れないようにしておいてほしい。
これらの道理をよくよく考えて行動し、決して軽んじてはいけない。
人々の幸せを願いながら生きることで、幸せが何であるかを知るきっかけをもたらすことができるかもしれない。
人に幸せをもたらす生き方はまことに尊い。だからそのように生きることを心掛け、またそのように生きる人々を敬っていこう。