参同契

インドに生まれ、人の道(仏法)を説き続けたブッダの教えは、西から東へ、つまりはインドから中国へと大切に伝えられた。
これを理解しようとする人々の頭脳は、当然のことながら一人ひとり異なっている。
賢い者がいれば愚鈍な者もいる。
しかし仏法は誰にでも理解することのできる普遍的な教えであるから、いずれは誰でも知ることができる。

教えの源であるブッダの言説まで遡れば、その説くところに歪みはない。
透き通った水のように、教えの底まで見通すことができる。
しかし時代を経るにつれ、教えの解釈は樹木のように枝分かれし、少しずつわかりにくくなってしまった。

細かな支流の1つだけを見て、それが教えのすべてかと思い込んでしまえば、もはや源を見失ってしまったのも同然だろう。
では教えの源さえ知れればもうそれでいいのかといえば、それもまた悟りとはいえない。

人には感覚器官という外界を感じる6つの門がある。
眼で色を見て、耳で音を聞き、鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を味わい、身で物を触れ、意識で思い考える。
そうして外界を知覚し、外界を理解し、外界と自分とが別物でないことを体験的に感じていく。
こうした自然と自己が相互に関係し合う世界を感じることができなければ、人は断絶した「個」の世界に閉じこもるしかない。

物体は様々で、見た目も性質も異なっている。
声一つとってみても、高い低いの別があり、心地良いうるさいの別がある。
それらに対して好き嫌いをいわなければ、そこに優劣は生まれない。
みな平等だ。

しかし分別して別物と認識することで、人は区別の世界を生きることになる。
物体を構成する要素は元々すべて自然に帰するものであり、自然と一体のものであるにもかかわらず。
あたかも母を求める子どものように、自然と自己とは一心同体のもの、人間は自然の一部なのである。
本来、分けて考えることなどできないはずのものであろう。

自然を眺めてみれば、火は熱く、風は吹き渡り、水は潤い、大地は堅固にして万物を支えている。
人間を観てみれば、視覚、聴覚、嗅覚、味覚といった区別がある。
それら一つひとつの事柄は、根本から枝分かれしていった末端のようなものと考えられる。

末端とは何か。
根源とは何なのか。
物事は本当に分かれているのか。
それとも同じなのか。
重要なのはここである。

たとえば世界の人々はその国独自の言語によって言葉を発している。
「日本語」「英語」「フランス語」といった言語という区別はあるが、それはどれも言葉という大きな源から生まれたものだろう。
表面上は違うように思えるが、根本は何も違わない。

自分と自然とを区別する、あるいは根源と末端を区別するというような物の見方をしていても、ふと、それらが別物ではないと感じる時がある。
ではそれらは同じものかと言えば、現象としては別物として存在している。
認識というのは曖昧で、同じようにも思え、別のようにも思えるものなのだ。

それをどちらか一方に限定する必要はない。
事実私たちは、明暗という対極の認識を行ったり来たりしながら生きる者だからである。
右足を出せば、今度は自ずと左足が前に出るだろう。
私たちの生き方はこの両足と似ている。

あらゆる存在には、その存在特有の性質が備わっている。役割と言ってもいい。
そうであるから、役割に応じた居場所を見つけることはとても大事なことだ。
たとえば火は熱い性質を持っており、調理の際などに非常に役立つ。
役割と居場所が噛み合えば、箱と蓋が合致するように物事はうまく進む。


また、その役割が真理にかなうものであれば、2本の矢の先端がぴったりと合わさったかのごとく、的確に当を得ることができるだろう。
話を聞くときも同じだ。
どのような話でも、そこから真理を学ぶのでなければ、真にその話を聞けたことにはならない。
くれぐれも自分勝手な解釈を持ち出して、真理を歪めて受け取ることがないように。

歩むべき道がわからない時、闇雲に歩を進めても正しい道を見つけることはできない。
歩けばどこかに近づく。どこかからは遠ざかる。
そんなふうに当てずっぽうで思慮なく生きる者は、深い森に迷い込んでしまうだけだ。

正しい道を歩まなければ、人の道を歩んでいることにはならない。
だから「道」を歩もうと志すすべての人に申し上げる。
二度と廻ってくることのない「今」をないがしろにして、人生を虚しく空費するような生き方だけは、どうかしないでほしい。