曹洞宗「修証義 第三章 受戒入位」

第十一節
仏の道を歩む者は「真実を悟った者」「真実についての教え」「真実に沿って生きる人々」の3つの宝を尊重しなさい。
生まれ変わり死に変わってもこの三宝(さんぼう)を尊重し続けるような強い志しを持っていなさい。
インドから中国へ、中国から日本へと伝わってきたブッダの教えの根本にあるのは、この3つの宝を敬う心である。


第十二節
仏の教えに触れる縁に恵まれなければ、人は三宝という言葉を耳にすることはないだろう。
当然ながら、三宝を敬って生きることもない。
「本当に正しいことは何か」と問うことなくこの人生を生きれば、人は不安に駆られたとき安易に迷信に頼ったり、真実でないことを説く人々の言葉を信じたりしてしまうかもしれない。
それはとても危険なことだ。
なぜ自分は不安を感じるのか。
なぜ自分は苦悩するのか。
その根本を突き止めることをせずに、何かを信じて安心を得ようというのは、不安や苦悩の根本的な解決には結びつかない。
真実を悟った者・真実についえの教え・真実にそって生きる人々、これらを手本にして生きることが、苦の正体を知り苦から離れて生きる最善の方法である。
そのように生きて、心安らかに生きる悟りを開いてほしい。


第十三節
三宝を敬うとは、浄く正しい真理を信念にして生きようとする態度のことである。
ブッダが生きておられようと亡くなっておられようと、一心に合掌して頭を下げて、
「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と唱え、その信念を声に出しなさい。
仏は正しい教えを説く師であるからこれを尊ぶ。
法は苦しみを和らげる薬のようであるからこれを尊ぶ。
僧は苦しみを分かち合い支え合う友であるからこれを尊ぶ。
それが三宝を尊ぶ理由である。
仏の教えを指針にして生きようとするならば、必ず仏法僧の三宝を尊ぶべきである。
どのような教えを行動の指針にするのでも、根底には真実を見極めようとする心がなければいけない。
そうした心があった上で、いろいろな指針を学びそれに沿って生きていくなら、それらも大切な人生の指針になりえるだろう。


第十四節
仏法僧の三宝を敬う心は、真理を求める心と真理が交わったとき、本物の信仰心となる。
衆生と仏とが別物でなくなったとき、衆生は仏の意味を知る。
いかに仏道から遠く離れた生き方をしていた者であっても、真理を理解したなら、必ず三宝を敬う心をおこすようになる。
ひとたび真実を理解する心が生じたなら、二度とその心が失われることはなく、やがては真理を悟り仏となるだろう。
三宝を敬うことを人生の指針とすることで、人は安らかに人生を生きることができるようになる。
ブッダはそれを身をもって証明された。
我々もその生き方を見習って生きていこう。


第十五節
仏法僧の三宝を敬う心をおこしたなら、次は三聚浄戒(さんじゅじょうかい)という誓願を立てなさい。
三聚浄戒とは次の3つの自戒である。
1.一切の悪事を行わない
2.すすんで善行に努める
3.他者のために行動する
この誓願を立てたなら、次に十重禁戒という10種の実践徳目を守るようにしなさい。
1.いたずらに生き物を殺さない
2.人のものを盗まない
3.淫欲を貪らない
4.だましたり嘘をつかない
5.酒におぼれない
6.人の過ちを責め立てない
7.慢心をもったり人をけなしたりしない
8.人のためになるものを施すことを惜しまない
9.怒りで我を失ったりしない
10.仏法僧の三宝を謗らない
仏法僧という3つの宝、三宝を敬う心(三帰戒)、3つの誓願(三聚浄戒)、そして10種の戒(十重禁戒)。
これをまとめて十六条戒という。
この十六条戒こそが、悟りを開いた者らが守り実践してきた生きる指針そのものである。


第十六節
十六条戒を自らの血肉とし、それを指針にして生きていくならば、人生において何よりも大切な真理を悟ることができるだろう。
智慧ある者がその真理を求めないことはない。
ブッダはこう言った。
「人は戒を受けることで仏の道を歩むようになる。
悟りを開いた仏と同じ道を歩み、仏の子となる」
戒を指針に生きれば、それはもう仏の道を歩む仏にほかならないのだ。
戒とは仏の道であり、仏の道とは戒なのである。


第十七節
悟りを開いた者たちは、必ず戒に沿った生き方をしている。
守ろうと意識してもしなくても、行動が自ずと戒に沿ったものになっている。
何かに意識がとらわれて戒を破るようなことはない。
戒を受けて仏の道を歩む者もまた同じである。
仏の道を歩みながら世界を眺めたとき、土も草も木も石も、宇宙に存在するすべてが真理を説いているように感じられることがある。
我々は自然が説き示す幾多の真理に耳を傾け、不思議としか言いようのない自然の導きを受けて、悟りとは何であるかを知る。
自然は悟りを開かせようと作為しているわけではない。
何もしてはいない。
何もしていないというはたらきをしている。
そこに我々は真理を見る。
そうして、仏の道を歩む志をより一層固めていく。
この尊い心こそ、仏の道を求める心にほかならない。

曹洞宗「修証義 第二章 懺悔滅罪」

第七節
ブッダをはじめとする歴代の祖師方は、慈悲の心から救いの門を開き続けてこられた。
それは、この世界に生きるすべての人々を安らかな心へ導くための教えの門であった。
どのような人であっても、志しを持ったならば、誰もがこの教えの門の内に入っていくことができた。
過去に過ちを犯し、また平生気付かないあいだにも罪を犯している私たちは、為した悪い行いの報いを受けなければならない。
しかしその罪を懺悔したなら、悪業の報いは軽くなる。
そのようにして生きることで、心は浄らかなものになる。

第八節
だから人は、正しい道を歩もうとするとき、決して慢心を抱くことなく、
必ず自己を省みながら進んでいかなければいけない。常に懺悔の心を忘れてはいけない。
仏の前で自分の罪を素直に懺悔することができれば、罪の事実は消えずとも心は浄らかになる。
そうした浄らかな心は、正しい道を歩む上で非常に頼もしい助力になる。
浄らかな心がひとたび現れれば、自分が変わるだけでなく、変わったあなたに影響されて周りの人も変わっていく。
善い心から生まれた影響力はどこまでもひろがって、人や生き物に限らず、山川草木などの大自然にまで広がっていくだろう。

第九節
仏に対して懺悔するとき、心には次のような思いがあるだろう。
「私は悪い行いをして悪業を積んでしまいました。
正しい道を歩こうと思っても、この悪業の報いが障碍となって道を阻み、挫折し諦めてしまうかもしれません。
だから正しい道を歩まれ悟りを得られた仏さまにお願いがあるのです。
どうか私の懺悔を聞き届けてください。
そして悪業による報いにも屈せず、道を見失わないで歩いてゆけるよう、見守っていてください。
仏さまの慈悲の心から生まれた功徳の力や導きの言葉が世界中に満ちて、
そしてその慈悲が私の身にも降り注ぐことを願ってやみません」
仏も昔は我々と同じ凡夫であった。
だから我々もまた正しく生きることで仏になることができる。
凡夫と仏は別人ではないのだ。

第十節
懺悔をするときは「懺悔文(さんげもん)」を唱えるといい。
次の短い偈文のことである。

我昔所造諸悪業がしゃくしょぞうしょあくごう
皆由無始貪瞋癡かいゆう む し とんじん ち
従身口意之所生じゅうしん く い し しょしょう
一切我今皆懺悔いっさい が こんかいさん げ

この懺悔文の意味は次のようなものである。

「私はこれまでに為してきた悪しき行いによって、多くの悪業を積み重ねてきてしまった。
それは意識して行った場合もあれば、無意識のうちに行ってしまった場合もある。
どちらの場合でも、貪欲に何かを求めたり、我を忘れるほどに怒ったり、正しいことを考えなかったことが原因となって、
行いと言葉と意識とで生み出してしまったものである。今、そのすべてをここに懺悔する」

おおよそ、以上のようなものだ。
仏の前に身を正し、心に懺悔の念を深く起こし、声に出して「懺悔文」を唱えたなら、仏は必ず我々を見守ってくださる。
罪の事実は消えなくても、懺悔によって身と心は浄らかなものになる。
罪の根っこを溶かして、これ以上いらぬ罪の芽が生えないようになるのである。

曹洞宗 「修証儀 第一章 總序」

第一節
生とは何かを明らかにし、死とは何かを明らかにすることは、仏教徒として最大の課題である。
生死の中に仏のさとりがあれば、生死は無くなる。ただ、生死がつまりは涅槃だと心得、生死だからといって嫌うべきではなく、涅槃だからといって願うべきでもない。
この時、初めて生死を離れ自由自在となるが、これこそが、まさに仏教徒として、この世界に生を受けた最大の課題だと究め尽くすべきだ。

第二節
人として生まれることは難しく、仏法に遇うことはまれである。今の我々は、これまでに重ねてきた善い因縁に助けられ、既にありがたくも人として生まれたばかりではなく、遇いがたい仏法に遇うこともできた。生死輪廻を繰り返す中での善い人生であり、最も勝れた人生である。
その最も勝れた善い人の命を、無駄にして、はかない露のごとき命を、無常の風に任せたままにしてはならない。

第三節
無常の命は頼りとはならない、露のごとき命は、どのような道の草に落ちて、一生を終えるかは誰にも分からない。
この身は、自分の思い通りにはならず、この命は、過ぎゆく時間の中でわずかであっても留めることは難しい。
若々しい少年時代の顔はどこかに去り、面影を探しても跡形すら無い。じっくりと観察したところで、過ぎ去った時間には再び逢わないことが多い。無常が突然に来るときには、国王も、大臣も、親族も、従者も、妻子も、素晴らしき財宝も、何も助けてはくれない。
ただ孤独に黄泉に行くのみである。その時、我が身に従うのは、生前になした善悪の行いとその報いのみである。

第四節
現代において、因果の道理を知らず、行いと報いとが対応することを明らかにせず、
過去・現在・未来の三世を知らず、善と悪とを正しく区別しない間違った見解の者の仲間に入ってはならない。
そもそも因果の道理は明らかで、私情を差し挟むことはできない。
悪をなした者は悪道に堕ちて苦を受け、善き行いをした者は善道にのぼって楽を受けることは、わずかばかりであっても違うことはない。もし、この因果の道理が虚ろなものだとすれば、諸仏がこの世界に現れることはなく、達磨尊者がインドから中国に来て迷える者を救うこともなかったことだろう。

第五節
善悪の行いと報いの関係には三種類ある。第一は今生の行いの結果が今生で現れること、第二は今生の行いの結果が次の人生で現れること、第三は今生の行いの結果が更に後の人生で現れることである。
仏の道理を修め習う最初に、必ずこの三種類の因果を学ぶのである。
そうでなければ、多くの場合は誤って、因果の道理を否定する間違った見解に陥る。
ただ、間違った見解に陥るのみではなく、悪道に陥り長い間、苦を受けることになる。

第六節
まさに知るべきである。今生の我が命は、二つや三つもあるわけではない。
間違った見解に陥り、その結果、無駄に悪しき報いを受けることがあれば、この尊い命は惜しんでも惜しみきれない。悪をなしても、悪ではないと思い、悪しき報いなどあるはずもないと誤って思うからといって、悪しき報いが来ないわけではないのだ。