曹洞宗「修証義 第二章 懺悔滅罪」

第七節
ブッダをはじめとする歴代の祖師方は、慈悲の心から救いの門を開き続けてこられた。
それは、この世界に生きるすべての人々を安らかな心へ導くための教えの門であった。
どのような人であっても、志しを持ったならば、誰もがこの教えの門の内に入っていくことができた。
過去に過ちを犯し、また平生気付かないあいだにも罪を犯している私たちは、為した悪い行いの報いを受けなければならない。
しかしその罪を懺悔したなら、悪業の報いは軽くなる。
そのようにして生きることで、心は浄らかなものになる。

第八節
だから人は、正しい道を歩もうとするとき、決して慢心を抱くことなく、
必ず自己を省みながら進んでいかなければいけない。常に懺悔の心を忘れてはいけない。
仏の前で自分の罪を素直に懺悔することができれば、罪の事実は消えずとも心は浄らかになる。
そうした浄らかな心は、正しい道を歩む上で非常に頼もしい助力になる。
浄らかな心がひとたび現れれば、自分が変わるだけでなく、変わったあなたに影響されて周りの人も変わっていく。
善い心から生まれた影響力はどこまでもひろがって、人や生き物に限らず、山川草木などの大自然にまで広がっていくだろう。

第九節
仏に対して懺悔するとき、心には次のような思いがあるだろう。
「私は悪い行いをして悪業を積んでしまいました。
正しい道を歩こうと思っても、この悪業の報いが障碍となって道を阻み、挫折し諦めてしまうかもしれません。
だから正しい道を歩まれ悟りを得られた仏さまにお願いがあるのです。
どうか私の懺悔を聞き届けてください。
そして悪業による報いにも屈せず、道を見失わないで歩いてゆけるよう、見守っていてください。
仏さまの慈悲の心から生まれた功徳の力や導きの言葉が世界中に満ちて、
そしてその慈悲が私の身にも降り注ぐことを願ってやみません」
仏も昔は我々と同じ凡夫であった。
だから我々もまた正しく生きることで仏になることができる。
凡夫と仏は別人ではないのだ。

第十節
懺悔をするときは「懺悔文(さんげもん)」を唱えるといい。
次の短い偈文のことである。

我昔所造諸悪業がしゃくしょぞうしょあくごう
皆由無始貪瞋癡かいゆう む し とんじん ち
従身口意之所生じゅうしん く い し しょしょう
一切我今皆懺悔いっさい が こんかいさん げ

この懺悔文の意味は次のようなものである。

「私はこれまでに為してきた悪しき行いによって、多くの悪業を積み重ねてきてしまった。
それは意識して行った場合もあれば、無意識のうちに行ってしまった場合もある。
どちらの場合でも、貪欲に何かを求めたり、我を忘れるほどに怒ったり、正しいことを考えなかったことが原因となって、
行いと言葉と意識とで生み出してしまったものである。今、そのすべてをここに懺悔する」

おおよそ、以上のようなものだ。
仏の前に身を正し、心に懺悔の念を深く起こし、声に出して「懺悔文」を唱えたなら、仏は必ず我々を見守ってくださる。
罪の事実は消えなくても、懺悔によって身と心は浄らかなものになる。
罪の根っこを溶かして、これ以上いらぬ罪の芽が生えないようになるのである。